1969年10月12日生まれ 女性 一人っ子です埼玉県飯能市の病院で生まれ
その後すぐに神奈川県相模原市へ小学校から結婚までは横浜の保土ヶ谷にて
その後は戸塚や鎌倉、辻堂と今の所神奈川県からでないまま暮らしております
今は鎌倉に13年目になります
幼少期から今まで幼稚園時代はひたすら 先生の「こうしなさい」という自由範囲の狭さにたいして反抗していたようです
画用紙にたくさんの絵を裏表無駄なく書き、新しい画用紙をほしいといえば「今月もう6冊目だからだめです」木の板に絵を描き、枠に釘を打ち付けたものに、いろとりどりの毛糸をからませるコラージュではどうしてもパンダさんのお顔が隠れるのがいやでそこは釘の枠だけにしたところ「全部みえなくしてください」といわれ・・・
園長先生に直談判しにいくような日々でした
そして、小学校入学時におばあちゃんの住んでいる横浜へと引っ越し、両親と私の3人だった家族構成は祖父母、母の一番したの妹、そして私たち家族の6人になりました
学校はわりと自由にさせてくれていた中、なぜか正義感だけは強く、それこそクラスの子達は大変だったと今なら思います
そして家庭内では容赦のない多数決が繰り広げられていたため、子供の意見はほぼ通らない,
テレビのチャンネル権や夕ご飯の献立なども大人仕様で過ぎて言ったのでした
その後小学校3年で近くの家に家族だけで引っ越しました
わたしとしては「やった! これでテレビも見れるし ごはんも私の食べたいものがでてくる!」と心躍ったのを覚えていますが・・・
小学校4年のころより母の精神疾患がそこから私のケア生活はスタートを切ります
小学校のころはまだよかったのですが、中学に入る頃には母自体が一人で家にいることが難しく
学校のお昼の時間に家に電話をかけ、時に帰宅して一旦様子をみてから午後の授業へ戻ったりの生活でした
まわりのクラスメイトはそれこそ「アイドル路線まっしぐら」の話題オンリー そのあたりから世間一般の女子学生ルートにも向かず、学業からの一般的な人生ルートにも意識は向かず、
19歳で結婚し女の子を産みました
右も左もわからない主婦業と赤ちゃんとの同居によって 取り残された感がはんぱなく・・・
そのうち22歳で離婚するも次の結婚が間も無く始まりました
その結婚では長男次男そして長女の順に3人の子供が産まれました
完全同居・同居の義理父母が不仲でその間をとりもちつつ 線路挟んだ反対側に引っ越して来ていた母のメンタルケア そして夫のうつによるメンタルケア その間に義父の介護・・・
間も無く私の父母のダブル介護がプラスされトリプル介護と仕事の日々が続きました。
期間としては6年から7年が介護期間になりました
義父が他界し、その後父が他界したところで離婚依頼されます
考えてみれば介護と仕事があまりにもクルクルしすぎて、子供のことはまだしも
旦那さんのことに気が回っていませんでしたから、当たり前ですよね
この部分を思い返してみると、本当に様々な師がわたしを鍛えてくれているのがわかります
そして、これらの中で生活に対してのお金を考えるということの大変さ、さらにはお金を得なければ生活ができないということが、精神的なストレス増幅に対して関与していることなどもひしひし感じていました。
働かないといけないから我慢しないといけないというような人
ここにいればなんとかお給料もらえるからと自分を抑圧してその場にとどまる人
お金が得られるかもしれないといことを中心においたことで
”自分”を利用されてしまい 人間不信になる人などいろんな方々はいますが、
この社会の大きなシステムによって、苦しい状態から抜けることができない人が増えてきたんだということも感じていましたね
そしてこれらが わたしにとって
「人がそのひとの個性を自然体でだせるようになることが人権だということ」
「関係性において どのようにしたら双方が尊重されやすくできるか、それには社会の霊性(精神性)が高められるようになる必要があるということ」
「社会の霊性(精神性)は競争社会そのものを放棄して、あたらしい共済社会システムになれるように小さくていいから行動・発信していく必要がある」
ということを深くじぶんのミッションとして落とし込んでいきました。
その1年半後に3度目の結婚をし、今現在に5人目の子供を産み暮らしています
さきほどの想いを念頭に、自分が関わり合いからきっかけをもたらしていく3つを胸に今も暮らしています
まずは自分が産まれてきた人生ラインの経緯でした
性質的な要素からライフワークへ
一人っ子であり、割とイメージしながら遊ぶのが好きで ペラペラと何かと喋りながらいることが多かったらしい
幼少期、3歳の頃までは知恵熱バンバンだったようです そしてある日眉間(第6チャクラを強打する大きなすっ転びがあり、その後は知恵熱やいわゆる病気と言われる症状などはないまま過ごしていきます
小学校3年生の夏、学校のプールの飛び込みの最中後ろからクラスメイトに押されたことを「誰じゃ〜💢」とふりかえったことがきっかけで、頚椎1番と2番が大幅にズレてちょっと大変な事態になりましたが、
ここからまた見えないものが肌にサラッと、時にベトっと寄り添ってきたりするようなエネルギーの塊がわかるように戻った気がします
その後母の精神疾患に寄り添いながら、父のパーキンソン病に寄り添いながら
中学高校とひたすらケア根性がレッスン対象になります
ただ、小学校からずっと継続していたエレクトーン、ドラム、そして当時からで出したFM音源のシンセサイザーなどでの音作り、音から譜面に落とす作業、吹奏楽部諸々などによって、周波数にも寄り添ってもらっていたこともあり、意識的にはトンガリ、他の生徒との間の膜を強固につくりつつも
「私は私の人生ルートを行くから別に大学いかなくてもいいし〜」と強がっていたことが微笑ましく思い出されます
結婚し子供が産まれ、社会との接点がなくなったトンガリくんは・・・
外に出るための仕事が欲しくなりました
お洋服の販売員から始まり(おしゃれがしたかった)
大手の建設会社に出向する設計事務所に入り(建築物特に構造に興味があった)
造園会社に入り(自然のものに心が動き)
その造園会社のガーデニング事業部へと移り(花へと心が動き)
子供が産まれることもあり会社をやめるが、家で花の定期宅配をはじめ(花と触れていたかった)
そのお客さんからフラワーエッセンスというものを聞き、体験するために事務所に連れていってもらうという流れ
トンガリくんなのに無意識だったストレス全開な自分を「意識化」したのが27歳後半です
そこからフラワーエッセンスの会社に入ります
何もわからないけれど自分なりに使いながら、フラワーエッセンスとは何か日本国内でまずはスピリチュアルな感覚ではなく、普段の生活の中で生活習慣のように使用できるための使い方などを、
日本の薬事法に触れないような形で発信するという、面倒ではあるが国の矛盾点に立ち向かわずにすり抜けるための試行錯誤を繰り返した10年です
その最後8年目に義父介護に加えたトリプル介護がスタート
いよいよ1日24時間が窮屈になってしまった私は 止められるも会社を辞めてフリーになります
はじめは会社に並行で良い関係性で仕事をして行きましたが、父母の介護が困難を極める時期には、いわゆる自己ルールでお金にもルーズになっていきフラワーエッセンスの会社にも迷惑をかけ、けれど自分では大切なものを守っているという頑なさにより本当の意味での孤独な人生を歩むことになります
自分の家族を守るためにしてきたエゴの極みは一番大切な人間関係の中で「助けて」といえなかったことから起きたことでした
そしてそこから自分自身の洗心で、人との関わり方をひとつずつ礼節を重んじてなかった部分、誠実さというものの本質的な改正にその後の人生をつかってきました
これこそが「コミュニケーションワーク」だったのです
私にとっては このフラワーエッセンスと、それによってエネルギーボディの開発も創造力(無意識領域)へのアクセス度が格段に上がったことも
様々なレベルにおけるコミュニケーションに役立っています
意識密度や意識次元といった 自覚するしないにかかわらない「視点」
人との距離感のとりかたや時間との付き合い方 さらには処理のタイミングや方法・・・
誠実という言葉を本質的に極めていくことによって ひとりひとりが自分の特性を歪めずに社会を調和させながら機能を強化していくことができる
そのためのツールは感覚に作用するということ・・・
それらを私は日々の暮らし・仕事にかかわらず「ライフワーカー」としてみなさんにお伝えしているのだと自覚したのです
今もずっとこのフラワーエッセンスを使いながら仕事をしてきています
延べ人数で8000人程度ではありますが、なんらかのフラワーエッセンスの波長のプレゼントさせていただき、
さらにその方のライトワーカーとして発揮できる形をお伝えするということが一番中心になっているかと思います
今はカウンセリングは細く長く必要な方に メインのコミュニケーションワークはご紹介いただいたかたを中心にさせていただいています
それ以外は お店や普段の生活の中でできる「お話の中」で最大限プレゼントさせていただいています
仕事やライフワークとしての経緯はこんな感じです
実装して見える自分について
168センチくらいです 体重については55キロくらいかなと思いたいです
高校時代からほぼ体型変化がありません
声はあまり高くありません
左利きですがお箸は右、筆も右です
今髪の毛はアッシュグレーからホワイトベージュを標準にしています
目の色は割と薄いですが、白熱すると目が変わっているようです
パンツスタイルがほとんどです
日々の習慣暮らしの中では 出会う人に「生きる希望」「探求するきっかけ」「笑顔」「次につながる何か」をプレゼントしています
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